徳川家康(16)

秀吉の妹朝日姫が家康のもとに嫁いできたとき、家康四十五歳、姫は四十四歳であった。
秀吉は家康の上洛を促すために、さらに生母の大政所を人質として岡崎に遣わす。
後事を本多作左衛門に託し、家康は三万の精鋭を率いて上洛。
ここに両雄は義兄弟としての固い契りを結び合う。
後顧の憂いがなくなった秀吉は、十二万の大軍を擁して九州を平定。
残るは小田原の北條父子のみとなったが……。
天正十八年八月一日、深謀遠慮の結果ついに家康は江戸城に入った。
が城とは名ばかりのあばら屋で、町は野盗・浪人の巣窟であった。
国内を平定した秀吉は翌年十九年、肥前名護屋に本営を築き、無謀ともいえる大軍を朝鮮に出兵したが、戦勢は日増に不利となった。
関白の位を譲られた甥の秀次には粗暴の振る舞いが多く、高野山にて自刃。
待望の実子秀頼が生まれたものの、既に秀吉には「浪花のことは夢の又夢」であった。
前田利家の死は豊臣家にとって大きな損失であった。
石田三成の陰謀を粉砕しようと決意した家康は、群党乱立の政情を収めるため、会津の上杉景勝の討伐に赴く。
この間に三成は毛利、宇喜田らを語らって伏見城を攻撃、時に慶長五年九月十五日、家康は七万の軍勢を率いて、三成ら西軍十万八千の大軍と関ヶ原に対決、天下分け目の大決戦の幕はここに切って落とされた。
関ヶ原の合戦は家康の地位を不動のものとした。
三百年の泰平の基礎を築き、更にその政策を海外へ広めんとする家康の念願。
だが全国の切支丹大名の間に反徳川の計略が画策され、大坂方の不穏な動きが嵐を呼ぶ…… 一代の寵臣大久保長安の死を契機に発見された連判状から、家康の六男忠輝と伊達政宗、切支丹大名をめぐる陰謀が発覚。
家康の怒りと痛恨は頂点に達した……。
大坂城をめぐる不穏の動きは、日増に激しさをましてくる。
なんとかして豊臣家を存続させたいと願う家康だが、秀頼母子が大坂城にある限り、牢人や切支丹信徒の不平分子が、秀頼を擁して大騒乱をひきおこす恐れがある。
すでに真田幸村が大坂と連絡をとっている。
事態は一刻も放っておけない。
その時、太閤の十七回忌を前にして、方広寺の鐘銘事件がもちあがる……。
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